略縁起
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珍しい二層式鐘楼
小田急線の狛江駅を北口に出ると、左側はこんもりと繁った森になっています。これは狛江弁財天池緑地保全地区の一角で、ここからが泉龍寺のその昔の境内地でした。この森を左に見て突き当たりに泉龍寺の鐘楼が見え隠れしています。
泉龍寺の本尊は釈迦如来です。曹洞宗に属し、永平寺および総持寺が大本山です。
伝説によれば、奈良東大寺の開山として名高く、伊勢原の雨降山大山寺をも開いた良弁(ろうべん)僧正が天平神護元年(765年)、この地にやってきて雨乞いをし、法相宗・華厳宗兼帯の寺を創建したのが泉龍寺のはじめとされています。天暦3年(949年)、廻国の増賀聖がこれを天台宗に改め、法道仙人彫刻の聖観世音菩薩を安置したということです。
配置図
歴史
戦国時代に寺は衰退し、小さな観音堂だけになっていましたが、旅の途中で立ち寄った泉祝和尚が泉の畔で霊感を受け、ついに曹洞宗の参禅修行道場として当寺を復興しました。その後、天正18年(1590年)、徳川家康が関東に入国すると時代は一変し、石谷清定が入間村(調布市)の内百五十石と和泉村(狛江市)の内百石とを与えられ、地頭として霊泉に接する小田急狛江駅南側に陣屋を構えて下屋敷としました。清定は泉龍寺の中興開山鉄叟瑞牛和尚に帰依し、霊泉に中島を造り弁財天像をまつるなど、率先して寺域の整備に努めたので、中興開基とされています。
※石谷家の墓
弁財天池
境内東南の霊泉(弁財天池)は良弁僧正が雨乞いをした折に湧き出したと言われ、昭和初年頃までは大干魃の夏は旧和泉村の人々がこの泉池に入って雨乞いをすると、必ず霊験がありました。そして枯れることのない豊かなわき水が、昭和30年代まで和泉・岩戸・猪方・駒井・喜多見・宇奈根の水田を潤してきました。
狛江駅に続く緑地約1,500坪(0.5ヘクタール)は旧境内地でした。これは昭和62年(1987年)、東京都により指定された狛江弁財天池緑地保全地区に含まれ、その後狛江市によって整備されました。平成14年(2001年)から市民ボランティアが管理しています。
経塚
北方の経塚古墳も旧境内地でした。5世紀後半に築造された古墳で、12世紀~16世紀の墳墓でもあり、墳上に中世の板碑が林立していました。良弁僧正の墓という伝承もある土地です。平成9年に寺が買い戻し、文化財として保存されることになりました。
本堂
本堂は、宝永3年(1706年)再建されました。市内最古の建造物です。昭和35年(1960年)より翌年にかけて、檀信徒の総意により緒堂とともに大改修が行われ、茅葺の屋根は瓦葺に変わりました。
子安地蔵
江戸中期、18世紀頃に子授け・安産・子育ての祈願に応える子安地蔵尊が本堂内陣に安置されました。四谷・青山・本所・神田・日本橋など江戸市中や上祖師谷・練馬・十条・立川・砂川・山口・所沢・宮寺など近郊広範に講中が出来、尊像は家々を一夜ずつ巡業しました。毎月25日に寺を出発し、翌月23日の送り込みで寺に戻ると、その晩は信徒が参籠し、翌日の縁日にかけて山内は余興や露店でにぎわい、第二次世界大戦前まで盛んでした。
学校と村役場
明治維新後境内は墓地と会わせて約4500坪(1.5ヘクタール)まで縮小しました。
明治5年(1872年)、明治政府が学制を施行し、これに応じて旧6ヶ村が協力して公立観聚学舎を設立しました。狛江第一小学校の前身です。泉龍寺の衆寮(しゅりょう)という建物を仮校舎としました。左の写真は衆寮で使われていた看板です。
明治22年(1889年)、町村制の施行により狛江村が成立すると、村役場は泉龍寺境内におかれ、大正12年(1923年)に旧一小(狛江駅北口広場)の隣地に移転するまでここにありました。