弁財天池

弁財天池の歴史

弁財天池の歴史

小田急線狛江駅北口から西へ歩くと間もなく道は泉龍寺に突き当たり、左に折れ右に折れして寺の境内の一端を通り抜ける道の左手に、鯉がたくさん泳いでいる池があります。ここはかつて澄み切った泉がこんこんと沸いて、枯れることのない清水でした。広さ約200平方メートル、水量は1分間に約9立方メートル(昭和初年の盛時)、水温は夏冬通して13度1分。夏は冷たく痺れる程で、冬は暖かくもうもうとけむっていたのです。

弁財天池の歴史

多摩川本流を離れること約1キロメートル、現在は高低差が分かり難くなりましたが、いわゆる立川段丘の上の浅い谷になっていて、遠く数万年昔、多摩川中流の水流が残した砂利層をくぐって地下水が湧き出していました。

伝説によれば1,200年以上前、奈良時代の昔に全国的な大干魃があり、良弁僧正がこの池において雨を祈った所、竜神が現れて大いに雨を降らせたということです。泉龍寺が禅寺となって再出発することになったのも、今から400年余り前、戦国時代の頃泉祝和尚という禅僧が旅の途中、この見事な泉を見つけたのがきっかけでした。泉龍寺という寺名も、この泉にちなんだものです。
水は人間の生活に欠かかせません。近年、狛江駅北口ロータリー一帯の旧狛江第一小学校の校庭跡(狛江弁財天池遺跡)から、4~5,000年前の縄文時代から、弥生時代・古墳時代へと続く古代の集落跡が発掘されています。大昔の人々がこの水をたよりに、そのほとりに住居を定めました。

弁財天池の歴史

かつて人々は、自然の恵みに深い敬意を表し、その心を信仰の形にあらわして畏れ敬い、互いに協力してともに活きる絆ともしていました。観音様のお堂であったり、弁財天の石祠であったり、神話であったり、また不動尊など、形は様々であれ、人間の弱さを忘れることの無かったその心は共通しています。

純農村であり続けた狛江の地は、ここ僅か50年ほどの間に驚嘆すべき変貌を遂げています。水田や畑や雑木林は住宅・商店・工場やマンションとなり、河川や用水路は道路・下水・遊歩公園となり人口が急増しました。弁財天池が初めて乾きあがったのは昭和42年(1967年)3月でした。市内での地下水汲み上げ量が増えた結果でしょう。その後、湧き出したり枯渇したりを繰り返し、ついに昭和47年(1972年)11月を最後に、大雨の際ほんの一時以外は湧き水が途絶えました。翌昭和48年(1973年)3月になって弁財天池が狛江市史跡第一号に指定され、復元工事が行われました。微量の水補給で、景観の保全と万一の災害に備えての貯水を確保しているのです。

弁財天池の深井戸掘削工事

平成18年12月4日、白石俊宏氏の長い間念願とされていた深井戸掘削工事が完成し、泉龍寺に寄贈されました。70メートルの深井戸で、地下水圧により池の底すれすれの高さまで水が上がってきています。現在これをポンプで汲み上げています。

竣工式参列者
工事を実施した植光社長